400年前に日本に嫁いだアニオー姫

歴史
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シンチャオー、ここ最近ダナンと日本の歴史に関してはまりだしているグエンちゃんです。今回はダナンと日本のかかわりのある歴史というテーマで記事を書いてみたいと思います。

誰もがあこがれる国際結婚。憧れているのは私だけですか!?400年前に日本とベトナムの国際結婚でベトナムから日本に嫁いだ女性がいました。その名はアニオー姫。彼女の記録はネット上では詳しく書かれていませんが、今回オペラの内容を中心にネット上からの歴史的な情報も併せてご紹介したいと思います。ベトナム人女性と国際結婚を考えている男性諸君に勇気づけとなるかと思います。とても興味深い内容です。それではお楽しみあれ~。

オペラ・アニオー姫のPRビデオ

時は遥か昔400年前

始まりはこの男

豊臣秀吉

16世紀末期、日本はまだ戦国時代の終わりに近づいているときです。豊臣秀吉は、朝鮮出兵の前後に、東南アジア諸国との貿易を促進するために、朱印状という貿易許可証を発行しました。秀吉は、自らの権威を示すとともに、中国産の生糸や銀などの高級品を入手することを目的としていました。

ベトナムとの貿易は、安南(ベトナムの北部、今のハノイ周辺)とコーチ(ベトナムの北部、今のハノイ周辺)で行われました。安南では、阮氏(ベトナム語ではNguyên)が支配しており、貿易のため訪れていた日本人が阮氏の保護下に現在のホイアンに日本町を形成しました。コーチでは、阮氏と対立する西山朝が支配しており、日本人は西山朝の援助を受けていました。秀吉は、安南とコーチの両方に朱印状を発行しましたが、安南側からは不満が出ました。安南側は、日本人が西山朝に武器や火薬を売っていることを知り、秀吉に抗議しました。秀吉は、安南側に配慮して、コーチへの朱印状発行を停止しましたが、それでも日本人はコーチとの貿易を続けました。秀吉は、ベトナムだけでなく、ルソン(フィリピン)、シャム(タイ)、カンボジアなどにも朱印状を発行しましたが、その中でもベトナムとの貿易が最も盛んでした。

朱印船貿易

朱印状

歴史的文献では朱印船貿易の始まりは、豊臣秀吉からとされていますが、制度化されたのは徳川家康の時代からです。家康は海外交易に熱心で、オランダ人やイギリス人などの外国人を顧問として採用し、ガレオン船を建造させました。江戸幕府は貿易許可証である朱印状を発行し、その許可証を得た得られた者だけが東南アジア諸国と貿易を行えました。幕府の目的は秀吉時代の朝鮮出兵で関係が悪化していた中国と貿易が出来ず、その代わりの国との貿易相手とする事でした。また、朱印状を発行することで貿易を独占し莫大な利益を得ていました。

荒木啓太郎とアニオー姫との出会い

オペラ「アニオー姫」の中では荒木宗太郎とアニオーは海の上で運命的な出会いを…という流れになっています。アニオー姫の第一幕では、当時荒木宗太郎が22歳の時に南シナ海を航海中に大嵐に巻き込まれて、海上を漂流する難破船を発見し乗組員を救助します。助けたのは4名の子供達でした。その中の一人が将来アニオー姫となる人物だったのであります。助けられた子供達は日本の船乗たちから「Arigato」の言葉を教えてもらい、その言葉が彼らの心に刻まれます。後にこの「Arigato」が荒木宗太郎の人生を大きく変えることになります。しかし!この後のストーリーが非現実すぎて凄い展開になります。

この救助劇から10年後に(恐らくホイアンの)船着き場の近くで像が暴れだします。子供が像に襲われそうになり、近くの港にいた荒木宗太郎は救出へ行きます。しかし、その自分も像に踏みつけられそうになってしまいます。もうダメか、と思った瞬間に美しい音色の笛を吹いた玉華姫がどこからか現れます。そして、落ち着きを取り戻した像は静かになって、窮地を救ったというシーンです。この玉華姫というのが将来のアニオー姫です。玉華姫に助けられた荒木宗太郎は「Arigato」と言います。
その言葉が玉華姫の記憶を呼び起こし運命的な再開となります。その後二人は恋に落ちるという設定です。

実際のところどのように二人は出会ったのかは記録に残されていません。少なくともアニオー姫のオペラのようなドラマチックな出会いではなかったかと思います。しかし、オペラの内容の一部は記録されている事と一致しています。例えば、王に姫を妻として懇願した事などです。

アニオー姫日本へ嫁ぐ

王は最初は結婚に反対していたそうですが、二人の強い意志に押されて国をあげて二人の結婚を祝福したそうです。1619年に結婚したとの記録がありますので、405年前の国際結婚です。おそらく日本の記録の中では最古ではないかもしれませんが、Top10位に入っても良いのではないでしょうか。ところが、ネット上の情報を調べたところ、この時代よりもっと古い国際結婚がありました。1542年に種子島に来たポルトガル人たちが漂着して以来航海士たちが日本人と結婚したという記録があるらしいです。ところが、この時代はまだ国籍という考えがなかったため、正式には国際結婚とはみなされないようです。
話をもとに戻すと、遂に玉華姫は荒木宗太郎の妻となり、日本へ嫁ぐ事になりました。当然ですが、この時代は飛行機などなかったので、船旅になります。ベトナムから長崎までは最低でも数週間かかったのではと思います。途中嵐や大波もあったでしょう、恐らく当時の船旅は命がけの旅にだったのではないでしょうか。そして、彼らは無事に長崎に到着し、舞台はベトナムから長崎へ移ります。

日本に到着した荒木宗太郎と玉華姫は歓迎されたようで、今で言う結婚式の際には盛大な催し物がされたようです。催し物は大変盛大に行われたとの事で、荒木宗太郎は元々は武士の出身でしたが、その後貿易商人になった人です。かなりお金持ちおよび権力者だったのかと思われます。でないと、ベトナムから外国人妻を連れてくるなんてことはできなかったかと思われます。おそらく、地元の有力者とコネクションがあり、いろいろと融通が利いたのかと推測します。
また、この結婚式に関してですが、関連した催し物が昭和45年から長崎くんちというイベントで披露されています。

玉華姫からアニオーさんへ

ベトナムから日本に嫁いできた玉華姫ですが、荒木宗太郎の事をいつもAnh Oiと呼んでいたので、「アインオーイ」から地元の人たちにはアニオーと聞こえたらしく、アニオーさんと知られたようです。ちなみに、Anh(アインと呼ぶ)とは女性が自分より年上の男性に使う人称名刺です。日本語では〇〇さんといったところです。Oi(オーイよ呼ぶ)は日本語でいうとすみませんという意味です。誤っている意味ではなく、注目してほしいときのフレーズです。なので、Anh Oiというと、「すみませんあなたー」もしくは「ちょっとあなたー」と言ったような意味になります。

鎖国

荒木宗太郎とアニオーさんには家須(やす)という名前の娘が一人いたそうです。
Wikipediaの情報によりますと、南蛮船の船入港禁止が1639年とのことなので、これは彼らが結婚してからちょうど20年後の事になります。しかし、その前から鎖国の前兆は始まっており、1632年に当時の江戸幕府から鎖国の通達が既に出ており、海外の大半の商人たちは帰国したようです。荒木宗太郎もそのうちの一人でした。

ここで注目したいのはアニオーさんの気持ちです。少なからず死ぬまでに一度でよいからもう一度は地元に戻ることを夢見ていた事でしょう。成人してから日本に来たので、日本語の問題もあった事でしょう。おそらく長崎の海の向こうを眺めて、帰郷の家族の事を思っていたのだと思います。それが鎖国になってしまい、出国が出来なくなってしまった。この出来事は彼女にとってはとても悲しく、ひょっとしたら絶望的だったのかもしれません。というのも、鎖国時代には国内で日本人と結婚している外国人は出国もできなかったからです。彼女の状況を思うと何とも切ない気持ちになります。今の様に遠く離れた海外でもスマフォで簡単に話せたりチャットをしたりなどできなかった時代です。郵便物だって送っても数カ月かかる、届くかどうかもわからない時代です。彼女が祖国を出発した時にはある程度の覚悟はしていたでしょう。それでも、鎖国というとてつもない大きな壁が経ち憚った時に、彼女の心はどのような状態だったのか気になります。この鎖国の前から外国人に対する圧力もあったっでしょう。他の外国人とくにクリスチャンたちは、この時代にひどい目に合っています。それも聞いていたことでしょう。もしかしたら、自分も同じような目に合うのかもとびくびくして生きていたのかも知れません。そう考えると想像がつきません。

終焉

荒木宗太郎とアニオーさんのお墓

荒木宗太郎のなくなった年は1636年、アニオーさんが亡くなった年は1645年と記録されています。旦那さんがなくなっても9年間も健在だったのですね。地元の人たちからは荒木宗太郎の没後もアニオーと呼ばれ愛されていたそうです。彼らのお墓は長崎市内のお寺にあるそうです。

アニオー姫と荒木宗太郎を凌いで

アニオー姫と荒木宗太郎を凌いで作られたのが、オペラ・アニオー姫です。すでに公演は去年終わってしまいましたが、リサイタルが予定されれば当サイトで告知したいと思っています。実は我々も気づいた時には終わっていました。ベトナムは2023年の9月にハノイで、日本では2023年11月にプレミア公演として1度だけ行われたそうです。素晴らしい内容のオペラなので、是非リサイタルを期待したいと思います。その場合には当サイトでも告知したいと思います。

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